年末年始に読んだ本②「不思議の国のアリス」

仕事以外は娘と息子を抱っこしつつ茶碗を拭いたりして時間を過ごしていますが、年末年始はさすがに本を読む時間もありました。


そんなわけで読んだのは「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」です。


なぜこの本を読んだのかというと、思えば昨年の私はジル・ドゥルーズに傾倒し…というほど読み込んだわけではないのですが、ドゥルーズの本を読んでいました。


最初は「千のプラトー」から入り「アンチオイディプス」、そして「意味の論理学」へと移ったのですが、この「意味の論理学」が曲者でした。


一度読んでもさっぱりわからない…しかたがないのでそのまま2周目に入り、なんとなくわかった気になって現在は3周目に入っているのですが、それでもコアの部分が掴めたかと言われると自信がありません。


この本はまさに私が泣き叫ぶ娘と息子を抱っこしたりオムツを替えながら、片や仕事もしなければいけないのにできないという焦燥感もあるというカオスな状態で読んだ本でした。


その時、この本こそが私の現状を打破する、または言い表している本だ、と内容も掴めていないのに確信したのです。


これは10数年前に読んだジャックラカンの「精神分析の四基本概念」と同様の経験で、その本も内容も掴めていない(というか全く引っ掛かりすらなかった記憶があります)のですがその時は重要に思えた本でした。


これについて以前、出張買取先で大学の先生(思想関係)から研究室に呼ばれた際に私が長々とこの話をして先生は苦笑いをされていたという、思い返せば顔が真っ赤になってしまう思い出があります(^_^;)。その時は大変失礼しました。


読んでも内容が掴めないならば関連書籍を読むしかない…ということで本書でこれでもかというくらい引用され、というよりも解説書なのではないかと思うくらいに説明がされている「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」を手に取ったのでした。


私が読んだのは新潮文庫のもので、もちろんそれ以外にも角川文庫や岩波少年文庫、そしてkindleならば「鏡~」との合本も出ているようで、お好きなもので読むことができます。


新潮文庫のものは金子國義が挿絵を描いていて、金子国義といえば古本屋がまず最初に覚えるべき挿絵や装幀を描く画家なのですが、アリスの不思議なストーリーと70-80年代の劇画っぽいあの絵が非常にマッチしています。The ナンセンスです。蛭子能収です(?)


おっさんの想像力では理解し難い表現も、あの挿絵で何度救われたことでしょうか(?)。


それはそうと話の内容はといえば、言葉に言い表すのが非常に難しいのですが、簡単なあらすじを書かせていただけるならば、「不思議の~」はウサギの穴に落ちる話で、「鏡の~」は鏡の中に入る話です(^_^;)


妻いわく「あれはストーリーを楽しむんじゃなくて言葉あそびや言い回しを楽しむ本なんだよ」ということらしく、まあ確かにそうだなという感じではあります。


ですが「不思議の~」ではラストに裁判があるのですが、その辺はクライマックス感が出ていて(私もその頃には若干流れにのれてきている)、読後「おお、少し盛り上がったな」と感じたものでした。


では本題の「意味の論理学」につながったのか?というと疑問符がつきます。


「意味論」は今読んでいますが、「ああ、あの場面は確かにアリスがそう言ったよな。なるほど、腑に落ちたぞ。そういうことか!」とはなりません。


あくまでもアリスはアリスで完結して、意味論は意味論として向き合っていくしかないという印象です。


思えばこれも経験したことではなかったか?


「21世紀の資本(ピケティ)」をより深く理解しようとして「ゴリオ爺さん(バルザック)」を読んだけど、後者からは娘への過剰な愛は娘の身も亡ぼすという教訓を得ただけで、ベルエポック期の資本については何も理解が及ぶことがなかったという…


結論として今回の読書の教訓は「ある本の二次資料としてその本を読んでも得るものが少ない」ということです。


そして二次資料としては得るものは少なかったですが、アリス自体は面白いですので誤解なきよう。

はなひ堂ブログ 2018年1月13日